—あなたのお仕事について具体的に教えてください。
私の仕事は、究極のサービス業です。
具体的な仕事の内容は、人生の総仕上げを共に過ごし、笑い、楽しみ、退屈を感じ、怒り、泣き生ききっていただくための介護福祉サービスです。
私が、介護福祉業界に入職したのは19歳の頃です。デイサービスや、訪問介護、グループホームなど様々な業種が存在する中、特別養護老人ホーム(以下特養)に就職をしてから21年になります。特養とは、要介護3~5の要介護認定を受けられた皆様に入居していただき、加齢に伴う衰えや認知症により在宅での生活が困難となられた方のサポートをさせていただく場所です。
具体的には、生活の基盤を支える食事排泄入浴といった身体介護といわれる直接サポートが必要な業務から、笑顔で生活を送って頂く為のその人との関わり方の精神的なケアを含む業務、ご本人の趣味や特技を活かした活動、アクティビティや四季折々の行事を行っています。私たち同様、生活そのものが特養であると考えています。更には、入居者の夢や希望、願いを叶えるサポートを行う場所です。
皆さんは、年をとっても夢や希望、願いはお持ちですか?
それとも年を重ねたら、夢も希望も願いも諦めてしまっていますか?
特別養護老人ホームに入居された皆様は、加齢に伴う老化や持病をお持ちの方が多く、いつ何があってもおかしくない方々でもあります。残された時間は、私たちほど、そう多くはないという事です。その時は突然やってくるかもしれません。その瞬間を迎える際に、自分の人生を振り返り、まんざらでもなかったと思っていただく事が、私の仕事だと思っています。
諦めてしまったこと、忘れていた想いを共に叶えご自身が生ききったと思っていただけるようにサポートする事が、介護福祉サービス業の価値でもあり、楽しさでもあり、プライドなのだと考えています。
しかし、そう簡単ではないのが、専門職の腕の見せ所です。難しくも、やりがいしか感じないところです。
先述させていただいた要介護3~5の入居者の方々は、それまで在宅での生活において様々な介護福祉サービスをご利用になられてきました。
それまでは、私たちと同じように、会社に勤めていたり、主婦として家族を支えたりしてこられた方々です。そこには父として母として、夫として妻として、社会人としての大きな役割が存在していました。忙しく毎日に追われながらも充実した日々だったでしょう。定年を迎え、子供たちも大きく成長し、父や母の役目も薄れていきます。自宅で過ごす時間が増え、これからは妻や友人たちと共に、自分の為に時間を使い、人生の総仕上げを謳歌しようと考えていたのではないでしょうか。
そんな中、『認知症』という病がその夢や願いに暗い影を落としました。
認知症になったら、何もわからなくなるわけではありません。自分の変化にも、もちろん気付いています。不安と恐怖、混乱から精神的にも追い詰められます。イライラする日も増えて当然です。ご家族もまた、不安な日々を過ごすこととなります。
気付けば、お世話をする側、役割を担う側から受ける側に家庭や社会での立ち位置が変わってしまい、それまであったはずの自分の役割がなくなってしまった事にも落胆されたのではないでしょうか。
そんな、様々な経験や葛藤の在宅生活の末に、私たちの特別養護老人ホームに入居される方が少なくはありません。ご自分に自信を無くされ、諦め、固い殻でご自分の心を固く閉ざされてしまった方もいらっしゃいます。
そんな入居者の皆さんに、役割を持っていただき、自信を取り戻していただくことが、特養の介護福祉サービスでの私たちの仕事です。
役割を担っていただき、多くの人からありがとうと感謝され、他者から必要とされ、尊敬される存在だという事を思い出していただく場所。そんな場所が特養という場所です。大正、昭和、平成、令和と激動の時代を乗り越えてこられた方々の人生の総仕上げをサポートする。介護福祉サービス業は、究極のサービス業といえます。
そんな日本を支えてこられた賢者の皆さんをサポートできる介護福祉職が得られる知識は、他の職業にはない大きな価値であるとも言えます。
戦争経験者も減少し、壮絶な実体験をお話しくださる方も少なくなっています。 入居者の皆さんから教えていただいたことを、介護福祉従事者たちが社会へ還元し、時代を紡いでいく役割も担っていると感じています。
—この仕事を始めたきっかけを教えてください。
高校を卒業してから、兵庫県明石市にあるダイビングショップに就職をしました。ダイビングは、元々孫が大好きな祖父母に勧められ小学校4年生の時に始めたのですが、好奇心旺盛だった私の性格にはこれ以上ない体験でした。海の広大さ、自由さに魅了され祖父母のすねを丸かじりしながら年に1回2週間のツアーに6年間参加していました。
今では考えられませんが、当時はまだリスクマネジメントに寛容な社会で、大人の引率2名に子供15名。同世代の子供たちだけでのツアーは、当時の私には大冒険のように感じられました。しかもタイムテーブルなんてありません。
潜っては食べ、昼寝して、また潜っては食べの毎日。極めつけは就寝前のナイトダイビング。毎日3本のダイビングを終えても、その興奮が収まらない私たちは、8人用のバンガローに集まり雑魚寝したまま翌日を迎えるという毎日でした。
小学校を卒業する頃には就職先を決めていましたね。そのまま、高校を卒業し、お世話になったダイビングショップに就職をしたというわけです。
そこから1年で退職をしてしまいました。趣味を職業にすると色々あるんですよ(笑)初任給も65,000円で、45,000円のアパートで生活していましたから、とにかく厳しい環境であったことは間違いありません。入居翌月からガスと電気と水道は止まっていましたね(笑)
これも時代でしょうか、賞味期限切れのコンビニ弁当をレジのお姉さんからもらったり、夜の海へ夕食の食材を狩りに潜ったりと、なかなか際どい生活を送っていましたので、限界を迎えたというわけです。
地元の千葉に戻ってきても、ダイビング以外に自分ができる事もなく、就職先を探していた時に知り合いの方から勧められたのが介護のお仕事でした。
こう見えて律儀な性格で、ダイビングの全てを教えていただいた社長以外の場所でダイビングをする気にもなれず、祖父母が大好きだった後藤少年は人と関わる仕事ならできるのではないかと、介護の『か』の字もわからないまま地元の特別養護老人ホームへ就職することになります。
時代は2000年、介護保険がスタートする2ヵ月前の事でした。成長産業として期待されていた介護とIT業界と言われていた時代でしたが、それを知ったのも数か月たってからの事だったと思います。
無資格未経験での入職。分からない事が分からない状況からのスタートで、今のような志や想いもありませんでしたが、新しい何かが始まるワクワク感はあったように記憶しています。
初任給134,000円。他の人ならこれだけ?と思ったのでしょうが、私の場合、65,000円からの大幅昇給!少ないとは微塵も感じませんでしたね(笑)
これが私と介護福祉の出会いです。
—あなたの強みは何ですか?
私の強みは、経験や興味関心が人より少し多い事だと思っています。
興味関心事について、気になることは徹底して掘り下げる事は、昔からの癖だと思いますし、全く興味がない事でも、見たり聞いたりすることで知ることを始めたりします。今ではその情報量が仕事でも役に立っていると思っています。例えば、介護職員はもちろん介護の技術や知識は持っていた方が良いですが、それだけでは物足りないと思うのです。介護以外の情報や知識はコミュニケーションでも役立ちますし、支援の過程に組み込むことで、より生活に厚みを生むこともできると思っています。例えば入居者さんの生まれ育った土地の名産品や郷土品は、話題にしたり、制作物のヒントにしたり、料理にしたりできますからね。
その瞬間に感じてくださったことや、楽しそうに昔話をしてくださる言葉に、次のケアに活かせるヒントが沢山あったりするのです。それも含めて介護過程を立案できるのは、私の強みと言えるかもしれません。
これまでの経験については、仕事現場での経験という事よりも、家族から学んだことが大きいですね。凄く順風満帆にみられるのですが、人並みに苦労もしていて、幼少期から父から暴力を受けていたり、その父が逮捕されて、受刑者となったり、私が介護の仕事を始めた2000年から、大きく人生が動いた気がします。
父が収監されてから、祖父の認知症、祖母の認知症、兄の鬱病と母の鬱病、祖母の介護と、多くの課題を抱えながら生活させてもらいました。両親も離婚して、母とのアパート暮らしが始まりましたが、どうしても自分の家が欲しくて、20歳で家を建てました。就職して1年、夜勤もできるようになったので、給料は150,000円ちょっとだったと思います。銀行のローン審査が良く通ったと思われるかもしれませんが、介護保険開始前の措置制度時代は、介護職員の社会的査定は準公務員相当に該当し、ローンが組みやすかったそうです。
こうして、諸経費を差し引いて手元に残る給与は結局10,000円程度となってしまいましたけどね。手元にお金が残らないのが私の当たり前の生活の様です(笑)
そんなこんなで、私が介護福祉業界に入職していなかったら間違いなくこの現実から逃げ出していたと思います。その一つ一つの経験が、職業人としても人間としても成長させてもらった経験として今は捉えられていますし、今の職業に還元できることを沢山得ることができましたし、その中で出会い助けられた人達がいることも私の財産ですし強みでもあります。
—あなたの使命とは何ですか?
介護福祉の正しい価値を広く社会に理解してもらう事です。その為には、ご利用者の生ききることを支援できる介護職員が必要です。
『介護福祉は究極のサービス業』
私はこの職業を全てのサービス業を超えた『究極のサービス業』と位置づけ、そこに誇りとプライドを持っています。
お看取りや慣れ親しんだご利用者との別れを経験したスタッフの多くは、その経験を辛いと感じるでしょう。私はその辛さこそ、『今を生ききる』目の前のご利用者へのご支援の糧となると考えています。
人生の総仕上げに、その身をゆだねてくださり、その人の当たり前の生活の継続をサポートし、その人生が閉じる瞬間まで生ききっていただくことに携われるサービス業は他にはありません。
だからこそ、事業所の介護サービスの質や出会う介護職によって、その人生が良くも悪くも左右されてしまうことを私たちは理解しなくてはいけません。
覚悟と責任をもって専門職(プロ)としての知識と技術を携え、おもてなしのサービス提供をする必要があると考えています。
日々の生活をサポートすることは、決して派手ではなく、地味で大変なことでもありますが、現場で働いている介護福祉業界の仲間や多くのサービス業も、その地味で大変な日々に誇りとプライドを持ちながら、一瞬一瞬その瞬間を大切に働いているのだと思います。
私は究極のサービス業として、介護福祉サービスの枠にとらわれず、サービスを超えるクリエイティブな瞬間を創造し、この介護福祉業界の価値を広く一般社会に伝えていきたいと考えています。
そんな想いから、『生ききる』為の支援の実践者を養成するため『けあぷろかれっじ』を設立しました。
介護職による介護職の為の有志団体として、セミナーを中心に活動しています。
最近は、コロナ蔓延を言い訳に開催できていませんが、色々整えて近いうちに再開したいと考えています。自主運営って、色々大変なんですよ(笑)
個人的には、ご本人やご家族、介護に関係のない一般の方々の想像を超える実践を目指し、現場への提案や助言、実践を行っています。
—最後にあなたのこれからの夢を聞かせてください。
老いや認知症を恐れるアンチエイジングという社会概念から、老いを楽しみ、夢や希望をあきらめず、かなえられる社会、スマートエイジングやスマイルエイジング、エンジョイエイジングというポジティブな社会概念に変換し定着させます。老いは決して悪いものではなく、老いを受け入れ楽しむ方向に社会全体を向かわせることですね。
その為には、これまで多くの先輩方や私も行ってきた介護職員自身が発信するには限界があると感じていて、社会概念を変えるほどのインパクトも足りないと感じています。今後は、皆さんの地域でおじいちゃん、おばあちゃんの笑顔が必要だと強く感じています。
お一人お一人の物語を感じさせてくれる『笑いじわ』こそ、社会概念を変えるインパクトになると考えています。年を重ねても、認知症になっても笑顔で生活されている皆さんに、もっと社会の中に出ていっていただかないといけません。その傍らで一緒に笑っているのが介護職というイメージを広げていきます。
その『笑いじわ』に刻まれたお一人お一人の物語を次の世代に紡ぎながら、超高齢社会のより良い日本のあり方を世界に発信できるのではと考えています。